自己チュー山ってなんだ?
2010年09月23日
日本で一番高い山は「富士山」
世界で一番高い山は「キリマンジャロ」、「エベレスト」
日本人・・・いや世界中の人が知っていることである。
でも、人間っていうのは不思議な生き物で「現実の自分」と「理想(夢や心)の自分」とふたりの人間を兼ね備えている。
そう、富士山やエベレストが日本や世界で一番高い山と認識しているのは、
前者であり、後者にはない。
世界に存在するさまざまな出来事が現実であれば、ここで出てくるものは理想(夢や心)の世界である。
それが理想の世界には、一番高い山はひとつしか存在しない。
・・・それが、「自己チュー山」。
自己チュー山の標高は人によって異なる。
低い山である人もいれば、現実の世界に存在する富士山やエベレストなんかよりもはるかに高い人もいる。
・・・私は、後者だ。
私はこの自己チュー山のてっぺんに15年ぐらい居座り続けた。
てっぺんにいれば、いつか自分ひとりで違う世界が作れるとそう願いながら、
たったひとりで居座り続けた。
その間に一緒にすごしてくれた人間もいた。
だが、徐々に仲間は減り、あるときたったひとりになった。
でも、私はたったひとりで居座った。
開き直ってずっと。
自己チュー山に奉られている神様もいなければ、山を登ったり下ったりするためのインストラクターもいない。
なぜなら、神になれるかなれないかは登った本人しかわからないからだ。
登るか登らないかはその人自身が決めることであり、どんな苦難があろうとも登りたい人は登ればいいのだ。
問題は、ある程度登ったときにそこで何かに気づいて、あわてて下山するか、
その問題を見て見ぬふりをして、ひたすら登り続けるかである。
または、てっぺんまで行って世界を見渡し、その世界の神として生きるか、
失敗して、身を投げるかのように転げ落ちるか?
・・・その2者択一しかない。
きっとこの世界には、神になった人間も存在するのだろう。
神になりつづけている人、神にならずにあきらめた人、自己チュー山にはたくさんいるのだ。
少なくても私は、神にはなれていない。
なぜなら、この山で神になるのは間違っていると私に論した人間が存在したからだ。
その人間は、現在も私とともに一緒にこの自己チュー山を下山し続けている。
でも、私たちはまだ、この山を下山できていない。
下山の過程であり、本当に下山しきれるかもわからない。
もしかしたら、この人間も私を再びてっぺんへと引き戻すかもしれないし、
下山の過程で、この人間自身があきらめて転げ落ちるかもしれない。
その結末を知っているのは、私たちふたりだけ。
そして、この自己チュー山で見渡せる世界も下山する過程もその結末もすべて人それぞれなのである。
つまり人生それぞれという言葉があるように、自己チュー山での生活も下山の過程も結末も人それぞれ違うのである。
私は、下山途中であるが、登ってみようといくらでも私とすれ違っている人間はたくさん存在するはずである。
または、私が登っている間に下山しようとすれ違った人間もたくさん存在するだろう。
もう一度言う。
「自己チュー山」は、理想の世界にしか存在しない。
今、登っている最中であるか、下山している最中であるかその答えを知っているのは、私ではなく、
これを読んだあなた自身である。
世界で一番高い山は「キリマンジャロ」、「エベレスト」
日本人・・・いや世界中の人が知っていることである。
でも、人間っていうのは不思議な生き物で「現実の自分」と「理想(夢や心)の自分」とふたりの人間を兼ね備えている。
そう、富士山やエベレストが日本や世界で一番高い山と認識しているのは、
前者であり、後者にはない。
世界に存在するさまざまな出来事が現実であれば、ここで出てくるものは理想(夢や心)の世界である。
それが理想の世界には、一番高い山はひとつしか存在しない。
・・・それが、「自己チュー山」。
自己チュー山の標高は人によって異なる。
低い山である人もいれば、現実の世界に存在する富士山やエベレストなんかよりもはるかに高い人もいる。
・・・私は、後者だ。
私はこの自己チュー山のてっぺんに15年ぐらい居座り続けた。
てっぺんにいれば、いつか自分ひとりで違う世界が作れるとそう願いながら、
たったひとりで居座り続けた。
その間に一緒にすごしてくれた人間もいた。
だが、徐々に仲間は減り、あるときたったひとりになった。
でも、私はたったひとりで居座った。
開き直ってずっと。
自己チュー山に奉られている神様もいなければ、山を登ったり下ったりするためのインストラクターもいない。
なぜなら、神になれるかなれないかは登った本人しかわからないからだ。
登るか登らないかはその人自身が決めることであり、どんな苦難があろうとも登りたい人は登ればいいのだ。
問題は、ある程度登ったときにそこで何かに気づいて、あわてて下山するか、
その問題を見て見ぬふりをして、ひたすら登り続けるかである。
または、てっぺんまで行って世界を見渡し、その世界の神として生きるか、
失敗して、身を投げるかのように転げ落ちるか?
・・・その2者択一しかない。
きっとこの世界には、神になった人間も存在するのだろう。
神になりつづけている人、神にならずにあきらめた人、自己チュー山にはたくさんいるのだ。
少なくても私は、神にはなれていない。
なぜなら、この山で神になるのは間違っていると私に論した人間が存在したからだ。
その人間は、現在も私とともに一緒にこの自己チュー山を下山し続けている。
でも、私たちはまだ、この山を下山できていない。
下山の過程であり、本当に下山しきれるかもわからない。
もしかしたら、この人間も私を再びてっぺんへと引き戻すかもしれないし、
下山の過程で、この人間自身があきらめて転げ落ちるかもしれない。
その結末を知っているのは、私たちふたりだけ。
そして、この自己チュー山で見渡せる世界も下山する過程もその結末もすべて人それぞれなのである。
つまり人生それぞれという言葉があるように、自己チュー山での生活も下山の過程も結末も人それぞれ違うのである。
私は、下山途中であるが、登ってみようといくらでも私とすれ違っている人間はたくさん存在するはずである。
または、私が登っている間に下山しようとすれ違った人間もたくさん存在するだろう。
もう一度言う。
「自己チュー山」は、理想の世界にしか存在しない。
今、登っている最中であるか、下山している最中であるかその答えを知っているのは、私ではなく、
これを読んだあなた自身である。